川瀬巴水「馬込の月」
川瀬巴水や吉田博の風景画、橋口五葉や伊東深水の美人画――。21世紀になって、人気が高まっているのが「新版画」である。繊細な色合い、緻密な表現。ダイアナ妃やスティーブ・ジョブスらの海外セレブが愛好したこともあり、国内だけでなく世界でもその「日本的な美」が高く評価されているのだ。江戸時代、庶民のメディアとして発達した浮世絵の木版技術を引き継いだ「新版画」には、どんな作家がいて、どんな作品があるのか。大正時代に「新版画」を生み出した版元・渡邊庄三郎の衣鉢を継ぐ「渡邊木版美術画舗」(渡邊章一郎社長)の特別協力のもと、その歴史を鳥瞰していこう。
「新版画」は「浮世絵」の衰退の後に生まれた。
「浮世絵」は江戸時代の「庶民のメディア」だった。それがモチーフとしたのは、歌舞伎役者や相撲取りといったポップスター、美女や物語世界のヒーロー、人々の目を惹き付ける名所旧蹟や花鳥などの動物、社会や人々を笑う戯画……つまり「庶民が生きている時代そのもの」だったのである。明治時代に入っても「浮世」=「時代の最先端」を描く「浮世絵」は隆盛を極めていたが、石版画や写真など、西洋からの新技術にその役割を奪われる。木版画の技術はエレガントかつ精密で、一枚絵としての美的表現はさらに磨かれていたのだが、反面、速報性や大量生産への対応などに関しては新しい技術に及ばなかったのである。雑誌や新聞が数千、数万の単位で発行されるようになった時代、「メディアとしての木版画」は使命を終えようとしていた。
そんな時代、庄三郎が「新版画」で目指したのは、成熟した木版画の技術を受け継いだ「新しい美術」だった。プロデューサーである版元が絵師・彫師・摺師の協業体制を指揮する江戸伝来の制作システムを踏襲しながら、より絵師の意向、個性を反映して作品を制作する。浮世絵のコレクター、研究者としても高名だった庄三郎は、「新時代の浮世絵」を生み出そうとしたのである。
明治末期、浮世絵はすでに衰退していたが「技術を生かした海外輸出向けの木版画は盛んに制作されていました」と庄三郎の孫にあたる章一郎社長はいう。「輸出商として取引に関わっていた祖父は、その制作の現場もつぶさに見ていました」。庄三郎が輸出用の木版画、「新作版画」といわれるこれらの作品には、「雑に作られたものも多かった」と章一郎社長。「より質の高い木版画を作りたい、という気持ちが祖父にはあったようです」。内外の画家と交流を図りながら、新しい版画制作への模索を続けた庄三郎。そして1915(大正4)年、オーストリア人画家フリッツ・カペラリの絵をもとにして、第1号の「新版画」が生まれた。庄三郎はさらに、橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水らとともに作品を制作するようになり、新版画の世界は広がっていったのである。
「時代の最先端」を描く「浮世絵」は、「美人画」「役者絵」を大きな柱として、後に「風景画」「花鳥画」「戯画」などがジャンルとして加わった。江戸時代は同時代の政情などをストレートに描くことが禁じられていたが、その制限がなくなった明治時代には「新聞錦絵」や「戦争画」で当時の世情がより詳しくセンセーショナルに描かれるようになった。だが、「美術」としての方向性を強めた「新版画」には、「戯画」や「戦争画」などのジャンルは存在しない。「祖父・庄三郎は『風景画』『美人画』『役者絵』『花鳥画』を4本の柱として考えていました」と章一郎社長は言う。青は藍より出でて藍より青し。「新版画」という「藍」は浮世絵の「青」を基にしながら、より芸術性の高い「新時代の木版画」を目指してモデルチェンジをしていったのである。
まず制作されたのは、カペラリから始まる「美人画」で、庄三郎は浮世絵仲間だった橋口五葉と「日本人作品第1号」の「浴場の女」を制作、さらに鏑木清方門下の伊東深水が作家として加わった。「役者絵」の描き手としては、山村耕花、名取春仙らが好評を得た。
「新版画」といえば……で名前があがる川瀬巴水が絵師として参加するようになったのは、深水、耕花の後である。やはり清方門下だった巴水は深水が庄三郎のもとで作った「近江八景」に感銘を受け、新版画を手掛けるようになったという。巴水の描く「風景画」の数々は国内外で高く評価を受けており、葛飾北斎、歌川広重と並ぶ「3H」と呼ばれることもあるほどだ。「花鳥画」の代表は、小原祥邨。「新作版画」を制作していた時代は、「古邨」と名乗っていたが、庄三郎の傘下で作品を発表するようになってからは「祥邨」と号するようになった。
「風景画」「美人画」「役者絵」「花鳥画」。この4ジャンルで美麗な木版画を制作した「新版画」は特に関東大震災後、庄三郎以外の版元が積極的に市場に参入し、隆盛期を迎えた。関西でも庄三郎の浮世絵仲間だった佐藤章太郎が役者絵や風景画などを手掛けている。だが、この繁栄は長くは続かなかった。1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発。物資が不足し、関係者が戦場にかり出される中、「新版画」の制作も大きく制限された。1945(昭和20)年、戦争が終わった後は、社会・生活の急速な欧米化、美術に対する意識の変化の波の中、徐々に「新版画」は時代の趨勢から離れて行くことになる。そして1962(昭和37)年、庄三郎が亡くなったことで、ひとつの時代が終わりを迎えることになったのだった。




