「新版画-もうひとつの浮世絵」 美人画の名手、伊東深水

「風景画」の川瀬巴水とともに、新版画の代表的な作家とされるのが、「美人画」の伊東深水(1898~1972)である。新版画草創期から戦後・渡邊庄三郎が亡くなるまで、この版元とともに制作した深水の新版画作品は130点を超えるという。そのスタートとなったのが、1916(大正5)年に発表された「対鏡」だった。

同年6月、庄三郎は親しくしていた画廊・松井画博堂の松井清七と「郷土会第二回展」を訪れた。郷土会は前年、日本画家・鏑木清方の門下生による発表機関として結成された「浮世絵派」の日本画研究団体である。庄三郎はそこで、まだ18歳だった深水の肉筆画「みつめる女」を見て、「これは良い木版画になる」と思ったという。庄三郎は清方の承諾を得たうえで深水を訪れ、木版画の制作をもちかけたのである。

渡邊規編『渡邊庄三郎』では、「対鏡」という作品を、こんなふうに描写している。

試作段階では、長襦袢の紅の表現に苦労したという。庄三郎は「摺り場」に深水を呼んで、目の前で植物性の本紅をザラ摺りで何度も摺り重ねていき、厚みのある色を作っていった。作品ができると、版元・絵師・彫師・摺師の全員で労をねぎらったという。結果、「対鏡」は美術史家の藤懸静也が「浮世絵版画には、嘗て見られなかった新しい版画が作られたのである」と評する出来となった。伊東深水「新美人十二姿 浴衣」 渡邊木版美術画舗蔵

東京・深川で生まれた伊東深水(本名・一)は、鏑木清方に入門する前、家計を助けるために看板屋に奉公したり印刷会社で活字工として働いたりした経験を持つ苦労人だった。13歳で清方門下に入った後はすぐ画才を認められるようになり、庄三郎と知り合う前、すでに10代半ばで院展や文展の入選経験があった。深水の「深」は深川の「深」、深水の「水」は師匠・清方の「清」の偏の「水」。将来を嘱望される存在だったのである。

〈渡邊版画にとってこの期は、カペラリに続く試作期で、この「深水版画」は、深水の自由に任せ興味を引き出させ、次々に深水は版下絵を描き、様々な彫、摺の表現を試して版画にしていた〉

美術史家の岩切信一郎氏は2018年に町田市立国際版画美術館で開かれた展覧会「浮世絵モダーン」の図録で書く。〈こうした画家主体の版画こそ、それは「新板画」の理念であり、即ち渡邊庄三郎の言う、「創作」であり、「画家の個性の発露」こそ「新板画」の理念なのであった〉。美人画の名手として名を挙げていく深水。その作品制作は、庄三郎にとっても、新版画制作のノウハウを蓄積することにもつながったのだろう。

深水の後、郷土会のメンバーは、次々と新版画に参入する。笠松紫浪、川瀬巴水、小早川清、山川秀峰、鳥居言人・・・・・・。1918(大正7)年、「郷土会第七回展」に深水が出展した「近江八景」を見て版画制作に興味を持ったのが巴水であった。

もともと清方は、歌川国芳→月岡芳年→水野年方と続く浮世絵師「歌川派」の系譜に連なる。〈いまどき画系を語るもいかがだが、われわれ師弟は、紛れもなく浮世絵の統をひく〉(鏑木清方「をしへ子深水」より、鏑木清方記念美術館『鏑木清方の系譜 ―師水野年方から清方の弟子たちへ―』所収)。晩年には自らを「浮世絵末流」と称していたほどである。弟子たちが木版画を手がけることについても理解があった。〈深水はどう思ふか、スケールの大きさで、北斎、芳年の系列につらなると見られる〉(同)。こういう師匠のもと、〈深水、巴水等は同門の友人を次々と誘って庄三郎の工房を訪問し、一時は清方一門の版画研究所の様相を呈したのである〉(渡邊規編『渡邊庄三郎』)という。鏑木門下の作家たちは、新版画という新しいジャンルで、ひとつの流れを作った。伊東深水「近江八景の内 比良」 渡邊木版美術画舗蔵

松井画博堂の松井清七(1883~1920)は、もとより清方と親しく、自分の店で鏑木一門の肉筆画頒布会を開くほどだった。清七の養父・栄吉は月岡芳年の弟子で、版元に転じた人だという。1914(大正3)年7月には、その画博堂で〈化物の絵の展覧会が開会された〉(鈴木鼓村「怪談が生む怪談」)そうで、初日に怪談会が開かれた。20世紀の初め、明治末から昭和初期にかけ、「百物語」などを行う怪談会のブームがあったのである。画博堂の怪談会では「田中河内介」という怪談が語られている時に、話し手が卒倒・死亡するという事件があり、それは後々まで語り継がれていく。興味のある方は、鼓村の随筆が収められている東雅夫編『文豪怪談傑作選・特別編 文藝怪談実話』をお読みいただきたい。

そういう会を開くほどだから、清七は世間の広い人だったのだろう。いろいろな人がその店に集まっていたようである。「当時、祖父の店は画博堂のすぐそばだったのですが、わざわざ画博堂の近くの土地を選んで店を構えたようです」と渡邊木版美術画舗の渡邊章一郎社長はいう。画博堂の怪談会に参加したのは、作家の泉鏡花、長谷川時雨、画家の黒田清輝、岡田三郎助、松山省三、俳優の市川左団次、喜多村緑郎・・・・・・。ある種の文化サロンだった松井画博堂に出入りすることで、庄三郎は様々な情報を得、人脈を広げていったのだろうか。新版画は、大正という時代の空気をたっぷりと吸いながら発展したのである。

目次